このシーンをつららが見たらまた誤解しそうだ…!!

言葉を操る…日本においては、<言霊信仰>にみられるように言葉に霊的な力が宿ると元来見なされてきています。人々から信仰がなくなっても、文化として現代社会でもその影響が見受けられますね。<姓名判断>や<言葉遊び>などは宗教的儀式の名残みたいなものですからねぇ。
ゆらを翻弄できたのも、言語の持つ力を心理的な錯覚と霊的な力といったものを複合した形だったからなんでしょうね。

ほんの数ページ前に「人間だ」と宣言したことが覆ってしまいましたが、仲間がやられたのに己の保身を考えているようじゃ総大将になんかなれはしない。妖怪の姿で再度対峙です。
しかし、この姿を見たゆらは一体どんな心境に陥るんでしょうねぇ…。
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寺嶋眞一さん:2010年11月25日(木) 22:20
先の大戦では、日本人は精神主義で戦って、みじめな敗北を喫した。
日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。
日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了いたしております。したがいまして、何ら憂慮すべき点はないのであります」と述べた。
すべてが予知され、計画され、十分に計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ、日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押し付けられたものではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができた。
日本人がどこで希望的観測の罠に落ちるのか、現実と願望 (非現実) を取り違え精神主義に走るのか、きちんと振り返り反省することはほとんど不可能である。
それは、日本語に時制がないからである。
日本語脳においては、現実と非現実を異なる時制を使って表現することができない。
現実を現在時制の内容として表し、願望を未来時制の内容として表すことができれば、それぞれの内容は別世界の内容となり、混乱することはない。混乱しなけれぱ゛キリスト教のような宗教になり、混乱すれば原理主義となる。
だがしかし、我が国では、一つの事態の肯定と否定は、同じ世界のこととして言い表される。
人々は、無為無策でいながら現実が願望へと突然変化 (反転) することをひたすら願うものである。
言霊の効果の出現を望んでやまない。
必勝を心の底から祈願すれば、悲惨な玉砕もあっぱれな勝ち戦に見えてくる。
実現不可能な欲望の思い込みが強すぎて、現実直視は困難になる。
これが、日本人の精神主義の本質である。
日本人は、祈願を他力本願・神頼みとしておおっぴらに認め合っている。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
この閉塞状態が日本人の知的進歩の限界となっている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
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