自分にとって「当たり前」のことを「当たり前」にこなし、「当たり前」のことを「当たり前」だと話しているだけなのに、何故かそれが評価され過度な期待をかけられ、自分の地位が変動し、それに耐えられなくなることがあります…。
「あの人だから」、「頭がいいから」、「先輩だから」、「年上だから」etc
などある種のフィルターを通してみられています。
もちろん。それらはそれぞれの視点から見られているわけで、どれもが私を構成する要因であります。
では何が問題かというと、勝手にそれらのイメージが先行しすぎて、それが崩れたときに落胆されると非常に傷つくということです。
仕事でもそうだし、友人関係でもそうだし、異性に関してもそうですし、先輩方や後輩達などでも同様です。
私には目標とする人達がいて、その人達に見習おうと努めています。
ただそれを追い求めていたら、周りからみられるイメージさえ変わってしまった。イメージだけが先行してしまい、過度な役割を求められてしまうことが多くなってしまった。
そして、それを知らず知らず満たし続け、ハードルが上がっていってしまう。
他人の為でなく自分の為だったのに、自分がそうありたいと思っていたのに、その境界線がときとしてあいまいになってしまうことがあります。
普段は全く気にならないことですが、一度後ろを振り返ってしまったら自分の立ち位置がわからなくなってしまうのです。
大学で多くの先輩、後輩、友人、知人ができました。
でも理解者は出来ませんでした。
何度かこの事について話した事がありますが、「別にいいんじゃね」とか「知らん」とか言われた事があるので、もう口には出しません。
所詮は他人事。その辺はわかっています。
人の相談に乗って自分が相手に投げかけている言葉は、実は自分がそのときに言って欲しかった言葉だと気がついた時、「なんと寂しい奴ww」と自嘲してしまうことがあります。
自分で気がついた時には、もうその言葉を人から投げ掛けられても意味をなさないのです。
何故ならもうその言葉の意味を知ってしまっているから。
こんなことの繰り返しです。
それぞれの状況におうじて仮面を被って演技を繰り返していると、まれに、どのような演技をすればいいか、どのような仮面を被ればいいのかわからなくなるときがあります。
アイデンティティー・パニックともいえるかもしれません。
こんなことになってしまう理由は自分でもわかっています。
私の中にあるのは異常なまでの自己献身なんですよ。
「自分のことを優先しているようで、その実は他者をいつも気に掛けている」
だから求められる仮面を被って、求められている演技を行ない、それが合致していなかったらパニックを起こしてしまうんですよ。
だが、これらを全てひっくるめて全て「自分」であると自覚しています。俗に言う「本当の自分」というのはどれか一つかけてはいけない。その全てが「本当の自分」であると考えています。「本当の自分」というのはこれらの集合体なのですよ。
「自分のことを優先しているようで、その実は他者をいつも気に掛けている」
だから私は福祉に携わる人が嫌いです。
教員が嫌いです。
衛宮士郎が嫌いですw
だって…
其処には自分が否定したくてたまらない自分が写っているんですもの。 まあ、今は落ち着いてまた「自分」というのを演じられるようになりましたよw
更新も元通りになると思います。
しかし…
俺ってば本当にゴフマンの社会学が性に合ってるんだな~。「人は常に演技を行っているものである」なんてひねくれているのにもほどがありますよ! たぶんゴフマンも私みたいな人だったんじゃないですかね??
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