「あれ?この一連の流れって、話の構成などへの疑問だとか、不満の話でしょ?なんで一キャラクターへの不満にすり変わっているところがあるんだ??」 そんなことを感じた今日この頃。
仕組みは大体わかっているんだけどね。だって私は、構造機能主義が主体で物事を捉えているから。物事の構造を捉え、物事と物事の関係性(機能)を見出す事を主とするから。私の分析・解析能力はここに由来する。
架空の杜さんや
tanabeさんが言及したからつい乗っかってしまった。
だが、反省はしていない。 以下述べることは前回の記事で書こうか迷ったところ。
『ハヤテのごとく!』だけでなく、作品の読み方にそれぞれ差異があるのは当然のことですし、それによって意見が違ってくるのは必然ですよね。
なので、
私は一つの作品にいろいろなとらえ方があるのは当然と思っていますし、逆にみんながみんな同じとらえ方をするのは気持ち悪く、その作品自体うすっぺらいのではないかという疑念を持ってしまうたちです。(西沢歩の行く末は…… tanabeebanatの日記より引用)
というのは、まっとうな意見です。ですが、ここではただ単に賛同するわけではなく、何故同じ作品でも解釈や意見が違ってくるのかということを、私なりの解釈というか分野での理論を踏まえて説明します。
読書というのは、「作品の何処を見続けているのか」という反復行動によって、読書行動がパターン化されるんですよ。<コメディ>に着目し続けていることが主に習慣化されれば、<コメディ>を見て取ることがパターン化されるし、特定のキャラクターを見ることが習慣化されれば、それがパターン化される。人によって作品の捕らえ方が違うとか、好き嫌いがあるのは、この読書行動がどのパターンを取っているかというのがある。幾ら他者が面白いといっていても、自分が面白いと感じないのはこういったことがあるからに他ならないし、同じ作品を読んでいても感想が違ってくるのはこういった読書パターンの違いがあるからだ。
この読書パターンを認識しているかしていないかによって、大分違いますよ。相手の批判的な意見は何処から来ているのか読み取ることが出来るし、感情的になって相手の意見ではなく個人のパーソナリティを攻撃するといったことがありませんから。
事の発端&根本的な原因ってこの読書パターンの差異だと捕らえています。
あ、因みにこの<習慣のパターン化>はマックス・ウェーバーのエートス論のようですが、厳密に言えば違います。
ついでに登場人物の批判についても述べておきましょうか
以下からは、キャラクターと漫画の登場人物を区別して書きます。
もちろん生理的に受け付けないというのは別ですが、多くの場合、何かを批判するときは、それ自体を批判するわけではなく、それを通して見ているものを批判しているものですよね。もちろんこれは、人に対しても言えることなんですよ。
人にせよ漫画などの登場人物にせよ、それ自体が単体で成り立っているのではなく、様々な個性(キャラクター)が付属されて成り立っているわけです。<桂ヒナギク>という登場人物を例にとるのならば、<素直じゃない>、<負けず嫌い>、<ツンデレ(俗に言う)>など、もちろん身体的特徴も取り入れられて一つのパーソナリティが構成されて<桂ヒナギク>という人物が成り立っているわけです。
自分自身がどういったパーソナリティで構成されているのかは、自己診断や、性格診断などをすればわかると思います。もちろん全てではありません。時として人からラベリングを張られたり(例えば嘘吐きであるとか)すれば、(人から見た)パーソナリティが追加されることもあるし、パーソナリティは人から承認を得るものであるといった理論もあります(どちらかというと私はこちらサイド)。
結局、漫画の登場人物に否定的な意見を述べるのは、その登場人物それ自体ではなく、その登場人物に付属されている個性(キャラクター)を否定しているんですよね。個性(キャラクター)の否定的な部分の比率が大きければ、その登場人物は「嫌い」になるし、逆に否定的な部分が少なければ「好き」になる。
こう考えると、人によって個性(キャラクター)の好き嫌いなんて違うのだから、「好きな登場人物の批判は許せない」なんて論法おかしくありません???
と、まあ色々な考察記事が出るたびにこんなことを考えております。